
長文を読むのも書くのも億劫になってきた時代に、あえてBloggerで書きたくなりました。なぜでしょう。
特定の投稿に注目させない
BloggerのAndroidアプリを開いた時に、エディター感覚の気軽さがあります。どういうことかというと、おすすめの、人気の投稿が勧められないので「このように書けばお手本です」という圧力が感じられません。私だけのメモ帳のように、誰もが書ける雰囲気があります。
人気がある投稿が必ずしも、自分の読みたい投稿ではありません。
読みたくない投稿が大きく注目されている場所は、居心地がよいと思えなくなります。たくさん読まれているから運営元が大切にするというのは、何かを排斥しているから実現できることの裏返しでもあります。
読みたいものを選別する必要がない
読みたいものを選別する必要がある場所では、自分の発言も読まれるのか読まれないのか慎重になることがあります。読みたくないと思われれば、排除されるだけですが、排除される経験が積み重なっていくと、排除されるために書いているような錯覚に陥ります。読みたいものを選ばなければ読むことが難しい場所で「書いて公開する」行動はハードルが高いです。
読まれなくてもよいという身軽さがある
読みたいものを選別するのが、たとえ人工知能であっても、情報の集積の結果です。選ぶ主体は、誰でもよいのでしょうか。
読まれなくても、誰かが読んでいますよということを書き手に伝える機能があればよいのですが、これは読まれたい人に読んでほしいということを実現することにはなりません。
嫌いな人から、好きです!と言われても嬉しくないのと似ていて、片思いなんですね。片思いでもいい、何かを書いたらその場にいる意味を見出すことができれば書き続けられます。金額などの報酬では得られないものです。書き手が減るという状況は、アフィリエイトでは解決しません。誰もが、ブログを通して仕事、出会いが得られるとは限らないからです。
ブログを書いて得をしているという人が集まっているのを見ると、ただ目的もなく書く行為が失われていくようです。そこで、極力、集まりを見えにくくすることで、思ったことを損得勘定なく書きやすくなるのではないかという仮定があります。読まれなくてもよい、集まりの輪の中に入らなくてもよい、Bloggerにはそんな自由さがあるように思えます。
まとめ
Instagramなど、画像で何かを表現する方法は、コメント欄の論争を呼び起こしにくい点で投稿するハードルが低いです。
しかし、誰もが目にする場所は、見慣れるものも多くなり、多くの人が好むものは何かという競争になってしまいます。読まれなくても書ける場所の構築を追求していきたいです。Bloggerがその第一歩です。